念入り日記

30代プロダクトマネージャー。仕事と出張と生活の中の気付きを書き留めます。念には念を入れるんだ。

私の平成史

 あまり時代を反映していない個人史ですが、はせおやさいさんのエントリに触発されて書いてみました。

hase0831.hatenablog.jp

 

平成初期


 世間的には3歳くらいで「物心」がつき、色々なものを記憶し始めると言われているが、私は高校くらいまでの記憶がほとんどない。

 外面的には成績優秀で運動が苦手、中学では生徒会の副会長をしており、厳しめの合唱部に入って全国大会を目指していたはずである。

 しかし、「誰々に○○って言われて~」「流行りの△△が欲しくって~」みたいな文脈がさっぱり頭に残っていない。なぜ生徒会に入ったのかの経緯も思い出せない。大人になって人と話したり、芸能人の地元トークをTVで見たりすると、「普通の人ってこんなに子供の頃の記憶があるんだなあ」とぼんやり驚く。

 感情表現が苦手で協調性がなく、その割に感受性が強すぎて突然傷ついたり泣いたりし、親からも育てにくい子供だと思われていたふしがある。あまり褒められたことはなく、「だめなところをできるだけ普通にしてほしい」というタイプの指摘が多かった。おそらく親が望んでいたのは平凡でも周囲に愛される子で、その真逆をいく私を恥じていたのかなとは、当時から薄々感じていた。今振り返るとおそらく発達障害であり、その概念が当時から普及していれば、親子関係ももう少し楽だったのではないかと思うのだが。

 高校は家から通える公立の進学校が女子校しかなく、成績から自動的にそこに確定された。合唱部もそうだったが女子だけの集団はなかなかしんどく、もしかしたらそろそろ物心はついていたのかもしれないが、やはり細部の記憶は薄い。

 むしろ漫画やアニメ、ゲームの記憶のほうがはっきりしている。同世代の子どもたちと同じく、黄金期ジャンプやドラクエファイナルファンタジーは今も血肉となっている。ラピュタふしぎの海のナディア魔法陣グルグルも好きだったな。スニーカー文庫富士見ファンタジア文庫電撃文庫などのライトノベルもよく読んだ。フォーチュン・クエストソード・ワールド短編集、ブギーポップシリーズ…。

 インターネットとの出会いは中学の図書室のパソコンだったか。その後、家にもデスクトップ機が導入され、夜中のネットサーフィンやチャットに活用させてもらった。同質感を求められる地元になじめず、ネット上で誰とも知らない人と、たわいもない会話ができることにはずいぶん救われた。

 

平成中期

 始めて自分の意思で進路を選んだのが、大学進学だ。家族と地元に閉塞感があり、とにかく一人暮らしをするということは自分の中で前提になっていた。コンピュータと語学が好きで、当時その両方で先進的な環境のあった私学を第一志望とした。これも経緯を覚えていないが、高3になる時に通っていた塾をやめ(受験の年になぜ…)、志望校には独学で合格した。

 大学生活は模索の日々だった。ノートパソコンを持ち歩き、サンドイッチ片手に講義を受けるような校風は性に合ったし、当時「学際的」と評された講義体系には、幾度も蒙を啓かれる思いをした。昼はキャンパスのネット環境から、夜は自宅回線から、インターネット世界に常に浸かっているのが当たり前の生活になった。今に通じる基本的なライフスタイルはここから始まっている。

 一方、家族と地元という枷はなくなったものの、そこで自分がどう生きたいのかはよくわからず、生活面でも人間関係でもつまづきまくっていた。内部進学生のお金持ちでスマートな身のこなし、地方出身者の明確な目標にもとづくポジティブなふるまいのどちらにもなじめずにいた。しばらく大学に行かない時期もあった。

 アルバイトは3種類ほど、どれも接客業であまり向いていたとは思わないが、ぼちぼちとこなしていた。個別指導塾の講師を卒業する時、教室の責任者に「色々なことができる人だが、何がしたいのかが見えない。これからどうするのか」と要点をついたことを問われたのは、妙に記憶に残っている。

 学生時代にモーニング娘。ハロー!プロジェクトにハマり、CDやTV番組、コンサートをチェックするようになった。熱量は時代によって異なるけれども、今に至るまで細く長く追いかけ続けられるというのも、やはりインターネット時代ならではだろう。ファン掲示板、テキストサイト、動画配信(Dohhh UP!懐かしいですね)、後に公式ブログやSNSなど、時代にあわせてより公式なチャネルが整備されていき、今ではライブ映像が公式YouTubeチャンネルで翌週見られたりする。女の子たちが歌やダンスで成長していく姿、トンチキながら人生にポジティブなつんく楽曲に、何度も元気づけられられた。

 さてなんとか人並みに就職活動をし、ソフトウェアエンジニアとしてメーカーに潜り込んだ。職場の先輩は氷河期世代がぽっかり抜けており、ジェネレーションギャップから気安い会話はしづらかった。趣味に奇異の目を向けられそうな気配もあり、仕事とプライベートは完全に切り分ける方針とした。

 エンジニアとしては凡庸ながら地道に仕事をしていたが、やがて担当事業の開発スケジュールが強烈に複線化し、体力気力が続かずダウンしてしまう。

 

平成後期

 結婚した。仕事のこと、インターネットやハロプロ、漫画が好きなことなど、嗜好をすべてオープンにできる相手が始めてできた。何も隠さずにひとつの人格として誰かに受け入れてもらうというのはこんなに自由なものなのかと、子供時代をやり直し、自分を育て直すようなのびのびとした時間を過ごしている。登山が共通の趣味となり、冬山や海外の山など、自分の足でたどり着く景色が増えていくことに達成感を感じている。運動苦手なインドアオタクとしては驚くべき変化である。

 一方その頃仕事では、筋の悪い新規事業に投入されることになった。劣悪な環境に退職も考えたものの、「転職活動をするとしても、何か自分の成果と言えるものがあるか?」と自問自答し、まずは目の前のことで実績を上げようと気持ちを切り替える。

 やがて新規事業で降ってくるありとあらゆるボールを拾っているうちに、自分がそこまで得意だと思っていなくても、傍から見たらわりとできていることがいくつかあることがわかった。子供時代の教育の賜物で、ずっと自分のできないことばかりを考えていたが、できることにようやく目を向けられるようになったのがこの時期である。

 結婚での自尊心の回復も含め、ある意味ここが私の「物心ついた」時期なのかもしれない。はみ出すことを恐れて過ごしていた長い時代を過ぎ、自分の人生を自分を主体として考えられるようになったのである。この年齢でようやく人並みの発達がすすんだとも言える。

 なお当該事業は案の定ポシャり、次の事業立ち上げに異動。芽が出るまでは長かったが意義の感じられるプロジェクトで、期待される役割と自分の貢献度合いがしっかり噛み合い、充実した会社員生活を送らせてもらった。(この時期以降に会った人からは、「しっかりした人」と言われるので面映い。)

 しかしやがて、経営・事業方針と自分の志向にズレが出そうな臭いがしてきた。趣味や習い事で気晴らししながらだましだましやっていたが、ズレが決定的になった時点で、転職へ一気に舵をきった。年齢的に長期化するかと想定していたが、書類を作ってから2ヶ月くらいであっさり決着。

 自分でここぞと思った企業があったのもアクセルを踏んだ理由のひとつであり、運良くそこから内定をもらうことができた。面接ではじっくり自己開示できるタイプの課題提出があったので、夫に開示しているのと近いレベルで趣味嗜好をオープンにしてある。ありのままの自分でOKをもらったので、これからだいぶ生きやすそうだ。他、短期間ながら内定や最終面接まで進めた企業もあり、今後もどうにかなるのかな、という気楽な気分である。

 

おわりに


 半生を見れば、自分の至らないところにばかり向き合い、鬱屈とした時間が長かったが、ほんとうに重要な局面では望む道を自力で選ぶことができているのは幸運であった。一方、自分のことでいっぱいいっぱいすぎて、振り回してしまった人々も少なからずいるという反省はある。

 大学進学と結婚、今回の転職に共通するのは、自分の嗜好に正直になることがよい結果につながるという、言葉にしてみると当たり前っぽいことである。逆に環境にあわせようとしすぎている時は、総じてふるわない。

 今後も、顔を使い分けすぎず、仕事も趣味もひっくるめたトータルな自己開示をしていくのが自分にとってはよいのかなと感じる。このブログを書いているのもその一環である。夫経由で、仕事や趣味で複数の顔をもつ方々にお会いすることができたのにも、大きな影響を受けている。

 そういう選択ができるようになった背景として、人の多面性が当たり前に受け止められる時代になりつつあるのは、平成の好きなところだ。世代にもよるけれども、オタクであることと他の属性が両立するという空気が少しずつ濃くなっている(有名人やスポーツ選手がアニメを話題にするのも、そう珍しいことではなくなった)。

 次の仕事は趣味と結びついた事業内容なので、自分そのままでフルスイングしていきたいなと思っている。新元号とともに新生活が始まる。